パンデミックとアート 2020-2023
[2024年5月/四六判/280頁/]
著=椹木野衣
発行=左右社
目次:
忘却と反復 2024
●二〇二〇年初春
世界は一変した
衛生観念ほどやっかいなものはない
ヒトが雑菌や汚染を運び込む
世界中で引きこもりが推奨されている
前衛芸術にスペイン風邪の余波はあったか
東京五輪は「人類全体の復活五輪」となった
『方丈記』とステイホーム
メディアアートは「リモートアート」でもある
「3密」は創造性のための武器だった
欧米も「悪い場所」かもしれない
新型ウイルスは戦争すべき「敵」なのか
家の外は悪夢となり、家の中が現実となった
地球は人間だけのものではなかった
高村光太郎の「手」にかつてない意味が見出される
パルテノン神殿と伊勢神宮
その展覧会は「酔いどれパンデミック」だった
都市に野蛮な顔が隠されている
パンデミック下のリアルを先取りした『漂流教室』
動物が人類に復讐する
エイズは大きな参照源となるはずだ
「沈黙」が「死」を招く
放射能もウイルスも「目に見えない」
死者たちを身近に感じるようになった
誤った隔離政策で名を奪われた人たち
『花までの距離』が教えてくれること
迷うこと、それを「リングワンデルング」と呼んでみたい
芸術祭最大の魅力が最大のリスクになってしまった
攘夷思想はコレラへの嫌悪とも連動していた
あたりまえのように開かれるオリンピックがファシズムに近づく
季節感を感じない一年だった
●二〇二一年
ウェルズの「火星人」は人類のことだったかもしれない
すべてが異例の緊急事態宣言下の展覧会
仮想空間は以前にも増して「密」になっている
「ぼんやりとした不安」が持続していく
10年目の3月11日はふたつの意味を持つ
ウイルスは超資本主義的存在だ
ウイルスを「株」と呼ぶのは偶然か
「距離」をめぐる態度の変更を迫られている
「空気」の争奪戦が繰り広げられている
シャーレの中の闘技場
芸術祭のリモート化は世代を分断してしまいかねない
ドメスティックな時代に入り込んでいる
ドメスティックであることは超ドメスティックでもある
世界の祭典がシュリンクする
東京五輪は時空を異とする「並行世界」だ
スタジアムというよりは巨大なスタジオに見えた
「言語は宇宙からのウイルスだ」とバロウズは言った
身体は空気でつながっている
世界中で忘却と反復が繰り返されている
マスクをつけない素顔は大事な秘匿物となった
制作のモチーフが「水」に求められている
バウハウスにパンデミックの影を見る
新たな祭りが「新しい未来」を切り開く
●二〇二二年
人と人との関係性そのものが変質しつつある
年月の感覚がおかしくなってきている
「古臭い生活様式」の回復を
パンデミックだからこその美術とは
パンデミック下で始まったプーチンの戦争
原発があるだけで容易に「核戦争」になりうる
菊畑茂久馬との「お別れ」がようやくできた
1991年と2022年は多くの点で共通している
「顔の見えない時代」が到来しつつある
マスクがサングラスのように使われている
芸術祭は芸術運動のようなものになりつつある
アートは状況に対して必ず遅れてやってくる
歓迎されざる同伴者
いったい何回接種すれば免疫が定着するのか
祭りは感染機会であると承知のうえで行われてきた
映画「アートなんかいらない!」の背景に荒川修作がいた
福島の帰還困難区域は「接触困難区域」になった
「ハレ」が大幅に後退した
オンラインに余白はあるか
次なるパンデミック、そのあとのパンデミック、さらにそのあとのパンデミック
モダニズムの純化がもたらした歴史の「免疫低下」
美術館で靴を脱ぐ習慣はない
●二〇二三年
美術史の「健康」と免疫作用
わたしたちの身体はほかの身体との関係性のなかでしか成立しない
磯崎新はパンデミックに備えていた
コロナ禍で国家間の「誤記」は起こらないか
著名人、功績者たちの他界とコロナ禍そのものの「副反応」
夢のなかで人はなぜマスクをつけていないのか
新型コロナが去ったあとのアートとは
「作品のない展示室」がかつてなく新鮮だった
今後コロナはどのように忘れられるか
あとがき